カオナシ君がやってくる 2

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さて、これは1年以上も前の話なのですが。

まぁ、どこの団体でもあることかもしれませんが。
いろんな人に会うと、時々困ったちゃんが来ることがあります。
ワタスが良く言うカオナシ君というか、逆さ人間というか。

以前、こんな記事を書いていました。
カオナシ君がやってくる

カオナシ君とは、自分の心の羅針盤がすっかりぶっ壊されて本来の顔がなくなってしまった人です。
そう言う人が時々来るのです。

ワタスのブログを見て長野まで来るぐらいなので、陰謀論や現代社会批判は大変詳しい。
スピリチュアルだの陰謀だの言ってるのですが、
実は、現代社会を批判して抜け出たようでいてまったく抜けきってない。

長野くんだりまで来て、また現代社会とまったく同じ道を歩もうとする人がいます。
何かピラミッド的な組織を作って自分達が上に立ちたいという人達でした。

おいおい。
こんな限界集落に来て発展も何もないでしょう。
北海道の夕張市に行って発展したいと言ってるようなもんでしょ。
おバカな価値観を追い求めたければ東京に戻りなさいよ。

ったく。
可哀想に。。
ワタスは、そう言う人を見ると早く治って欲しいと願うのですた。

ワタスが言うカオナシ君とか逆さ人間とはどういう人達を言うのか。

オウム真理教の例を出して、作家の上野千鶴子さんが面白いことを言っていますた。
一部、引用します。

他人ではなく自分が自分を評価して生きる新しい時代

『サヨナラ、学校化社会』 上野千鶴子著  太郎次郎社エディタス

支配的な権力に対抗する側の特徴を見るとおもしろいことに、対抗しているはずの支配的な価値を、ちょうど裏返したような組織をつくり上げてしまうことです。「牢名主」(ろうなぬし)がそうであり、支配的な価値においてはもっとも極悪非道とされて、もっとも刑期の長い犯罪者が、逆に牢の中ではトップに君臨する。価値こそ逆転しているけれど、しかしつくりあげた仕組みは娑婆(しゃば)にあるものをソックリ引き写したものです。オウムも、グルと弟子とのあいだに、教師と生徒のような評価し評価される関係をつくり、信徒同士のあいだで競争が行なわれました。

教団のなかは位階が非常に細かく分けられており、それをステップアップしていくカリキュラムはまさに今の学校制度そのものです。支配的価値から逃れてきたはずなのに、「サティアンのなかではみな平等だ」とはならない。対抗組織というのは、それが敵対していたはずの支配的社会を、気づいたらそっくり模倣してしまっているものなのです。しかもそこにあるのは、グルに認められることで自分が評価される世界です。

サリンをまけと言われたら撒き、それが業績として評価されて、やれなかった奴に差をつけることができる。そしてグルの意向に沿えたことに満足を感じる。こうした学校的価値から遠く離れたつもりだったのに、サティアンのなかでももうひとつの学校に属してしまった。しかしそれは、ひとりオウムの若者たちだけではないはずです。自分で自分の評価ができず、ただ他人の目でしか自己評価ができない従属的な意識こそが、実は学校的価値感のなかで叩き込まれてきた習い性のようなものだからです。つまり、「だれかのために」「なにかのために」という大義名分がなければ、自分を肯定したり評価したりすることができない。

自分で自分を認めて受け入れることを「自尊感情」といいます。そしてオウムの若者たちは、この自尊感情を奪われた若者たちでした。

エリートたちが育った学校は、彼らの自尊感情を根こぎにした場所でもありました。学校が自尊感情を奪うのは、劣位者だけからとは限りません。学校は優位者に対しても、彼らの人生を何かの目的のための単なる手段に変えることで、無条件に自分に対する自尊感情を育てることを不可能にする場所なのです。

・・中略・・

自分の人生に最後に評価をくだすのは、親でも先生でも他人でもありません。
自分が死ぬときには、親も先生もこの世にはいない。自分の人生に「ああおもしろかった」「生きてきてよかった」と言えるのは自分だけなのです。だったら、自分が一番納得できる生き方をしてみようではありませんか。

自分が好きなことだけやった結果を第三者が評価しようがしまいが、自分が好きなことだけやって生きてこれたのならそれでOKではありませんか。人に言われたことばかりやって人に頭を撫でてもらう生き方と、人に言われないことを好きなようにやって、自分で「ああおもしろかった」と言える生き方とどちらがいいかなのです。

今の若者たちは、二言目には「好きなことが見つからない」と言います。
しかし親や教師に言われる通りのことをやっているときに感じる違和感の中に、自分がやりたいことのヒントがあるのです。ただそれに確信が持てず、自信がない。誰もそれをサポートしてくれないし、逆に水を浴びせたりする。若者の「好きなことがわからない」を額面どおりに受け取ってもいいかどうかは疑問です。

ある有名校で講演したときに、ある男子高校生が「僕はつまらない学校教育を受けてきたことが、上野さんのお話でよくわかりました。こんなつまらない教育を18年受けてきた僕らは、これからどうしたらいいのだろう」、と先生方の前で堂々と発言したのです。私は、「君がそう思ったその時、君はすでにそこから脱しているのだから、これまでの取り返しはいつでもできるよ」と答えました。

本当に好きかどうかはやってみないとわからないでしょう。
やってみて失敗したら、やり直せばいい。それだけのことです。そうやっているうちに、自分はこれしかできないとわかることがあるでしょう。その時は、その道一筋でやって行けばいい。それでも、あれも好き、これもやりたいと気が多かったら、あれもこれもやったらいい。食うためには食うための仕事を必要なだけやればいい。そのためには人さまに役に立つスキルの1つや2つは身につけておいてもいい。

大事なことは、いま自分にとって何が快いか、キモチいいかという感覚を鈍らせないことです。それこそが「生きる力」なのですから。

いみじくも上野千鶴子さんが言うように。
東京からやってくる逆さ人間さん達。

別にそういう方々を責めるつもりは毛頭ない。
そういう人達は、学校的価値観の被害者だからです。

決してあなたが悪い訳じゃない。
知らぬ間にあなたの心はひしゃげてしまっている。

このままでいいのか?そんなことじゃダメだ!もっと頑張らなきゃダメだ!
子供のころから、そうしきりに言われて逆さゾンビ人間になってしまっている。
自尊感情が消えてしまっている。

あなたは子供の頃は満面の笑顔で笑っていたでしょう。
自分にとって何が快いか、気持ち良いかという感覚。
心の羅針盤を思い出せ。
本当の自分を思い出せ!

そんなに頑張らないで良いですよ。
あなたはそのまんまで良いんです。
強くなくて良いし、怖かったら逃げて下さい。
人に助けを求めても良い。
ダメだって良い。
あなたはそのままでいて下さい。
大丈夫。大丈夫ですからね。

あるがままに。
なすがままに。

黄金村は大きくなんかならない。
どちらかというと、はかなく弱い存在であり続ける。

花はそこにそっと咲いて、励ましてくれる。
やさしすぎて誰も気づかない。

hanabatake.jpg

我々は、その波動を広める。
その波動の源になる。
絶対に、この狂った現代社会に飲み込まれたりはしない。
そして一番尊いものは何なのか、多くの人達が気づいてくれるのを待つ。

本当にありがとうございますた。

これは80年代のヒット曲 シャーリーンさんのI’ve Never Been to Meです。

そして誰もが羨むような幸せを手に入れたけど
本当の私がみつからないの

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