日本のイルミナティについて

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さて千葉のイベント。
子供帝国の逆襲お疲れ様ですた。

今回、珍しく天皇家の話をしました。
あんまり天皇家どうのこうのは今まで書かないでいたのですが。

ちょっと分かりにくかったかもしれないので補足をのっけときます。

大陸から渡って来た天皇一族ですが、出雲方面から入って来た人達と、
鹿児島から入って来た人達がいた。
日本上陸ルートには、出雲ルートと鹿児島ルートの2つがあったのでした。
出雲から入って来た人達は出雲大社を作った。
そして鹿児島から入って来た人達は、伊勢神宮を作った。
だから伊勢神宮と出雲大社を結んだ線は、高句麗(北朝鮮)のピョンヤンと一直線になる。

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日本と高句麗の皇族は同じということです。

今まで主にヨーロッパのイルミナ亭の人達しか書いてなかったのですが。
もちろん日本内部にもイルミナ亭の人達は存在する。

日本のイルミナティの皆様というのはご存じ藤原家ですよね。
天皇家周辺の五摂家というか藤原一族。

ちょっとここら辺は書き出すといくら書いても書ききれないのですが。

参考になる文章を張っておきます。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=271667
天皇家の南朝と北朝の分断の始まり

日本は1万5000年以上も前の世界最古の縄文文化発祥の地。
現在の東日本が縄文文化の中心。
自然の恵みや災いと共生し八百万の神々に感謝して生活を営んでいた。

日本列島は、古代天皇家を中心とする
地方分権の集団指導体制であった模様だ。

しかし、西洋で突如現れたシュメール文明。
彼らは唯一絶対神の思想の下、自然破壊と侵略を繰り返す。

そして弱肉強食、極悪非道の殺戮を開始。
神の名のもとに全ては正当化されていく。
宗教を乱立させて対立と争いの道具とする。
洗脳された民衆は、互いに殺しあう。

彼らは見学して楽しむ。
勝者こそ正義。
彼らにとって有色人種は人間ではない。
これが人種差別の根源である。

やがてアジア大陸は、彼らによって支配される。
彼らの魔の手は、極東の日本列島に及ぶ。

日本列島の先住民であった縄文人は、
渡来人と融合した弥生人によって駆逐されていく。

そして、大化の改新という渡来人による
クーデーターによって律令政治を導入。

彼らは法によって人民を支配。
己の権力保持の為には、どんな手段も厭わない。

出雲を中心とした古代天皇家は、彼らの手先となった朝鮮半島の百済王族の末裔によって浸食されていく。

藤原鎌足が百済王族の子孫で無いとしても、桓武天皇の母親は百済系渡来人の子孫である事は定説である。
2001年、今上天皇が上記についてのご発言をされている。

百済の武寧王の子孫が高野新笠であり、桓武天皇の生母とされている。
藤原一族による天皇家乗っ取りの初代天皇は桓武天皇。

参考:蘇我入鹿慘殺から?國日本は百濟に乘つ取られてゐた 藤原五攝家とは百濟亡命王族だつたのだリンク

くどい様だが、在日特権・パチンコ・K-POP・朝鮮総連・民団・統一教会・創価学会・・・これらは全て関連がある。

地球原住民として最後まで生き残っていた縄文系日本人。

南は九州南部、沖縄、台湾。
北は関東以北へと追いやられる。

日本の歴史と縄文人は、藤原不比等によって抹消捏造される。
古事記・日本書紀によって古代天皇家は神話とされる。

藤原家は天皇家と婚姻による融合を図る。
藤原不比等の4人の息子は藤原南家・藤原北家・藤原式家・藤原京家を興す。

やがて、暗黒の平安時代の到来である。

藤原家は縄文人の抹殺を画策。
征夷大将軍とは、縄文人討伐の大将。

つまり、坂上田村麻呂は縄文人抹殺の司令官。
この坂上田村麻呂は、後漢霊帝の末裔。

藤原式家は、百済系桓武平氏を中心とした軍事力の強化を図る。
傀儡軍事政権の幕開けである。

やがて藤原式家と藤原北家による内部権力抗争が始まる。

この代理戦争が平氏(式家)と源氏(北家)の抗争である。
清和源氏(藤原北家)が鎌倉幕府設立。
そもそも清和源氏とは、清和天皇系の武家である。
清和天皇の生母は、藤原明子。

勝者となった藤原北家は5摂家に衣替えして天皇家と融合していく。
敗れた式家は、桓武平氏系の北条氏として存続する事となる。
鎌倉幕府とは、藤原北家を頂点とする藤原式家による傀儡武家政治である。
天皇家は藤原式家(南朝)と藤原北家(北朝)に分断されていく。

で、今は南朝系の天皇になっているのですね。

中丸薫さんの書籍も良い線行ってると思うので張っときます。

今の皇室を考えるときに、一つ大切なことがあります。
   それはこれまでタブー視されてきたことですが、ネットによる真実を捉えようとする潮流や、私を含めた一部の真実の語り部たちの努力が実り、今ではかなり知られてきた事実でもあります。それは明治天皇のことであり、大室寅之祐という人物についてのことです。

   皆さんは明治天皇が、イエズス会のフルベッキの周りに集まった、明治維新の志士たちと一緒に写っている写真を見たことがあるでしょうか。それが後の明治天皇になる大室寅之祐だったということです。(P.150 に写真が掲載)

   大室寅之祐は後醍醐天皇の末裔です。
   彼は京都ではなく、長州にいたのです。そして毛利家が彼を保護してかくまっており、大室家を支えていたのでした。

   かつて明日香のヒミコは天皇になろうとしてもなれなかったのです。
   それは鎌倉時代末期のことで、南北朝時代に現われた北朝は、実はこのヒミコの流れを汲む家系でした。その後北朝では何とかして、そこから天皇を継続させようとして苦労したのです。それで足利義満が自分の娘たちをずい分と嫁がせたり、ついには北朝の女性を孕ませてその子を天皇に祭り上げたりしているのです。ということはこの時点で、すでに男系の天皇家の血が途絶えていることになります。神武朝とは異なるからです。

   そしてその後このことについて、長州藩にいた後北条家の末裔の志士や吉田松陰が、後の明治政府の中心になる人たちに、「やはり本来の天皇家の血筋に戻すべきではないか」と進言したのでした。そして幕末に、南朝の重要性を説かれて納得した伊藤博文や岩倉具視らは、南朝の後醍醐天皇の末裔に当るこの大室寅之祐に、徹底的に帝王学を教え込み天皇に仕立て上げたのです。

   しかしこのことは、それまでの天皇家を軽んじたというわけではなく、むしろ本物の天皇の血筋に戻したと言えるのです。つまり大室寅之祐の魂は神武天皇の魂であり、新しい時代の天皇になるべくしてなった人なのです。

   一方で悲しいことですが、孝明天皇は早逝されたことになっており、それには抹殺された可能性があるとも言われていますが、しかし一方で、殺害されたとカモフラージュすることで、実際には京都に逃れて隠居されていたという説もあります。あるいは、自分は天皇の本筋ではないと自覚されての行動であったとも言われています。

   ただ孝明天皇は公武合体などを進め、徳川との将来を描いていたこともあり、攘夷派として過激な行動に出たこともあります。いずれにしても後に新政府を担う薩摩・長州とは最後まで意見が食い違っていたことを考えれば、追いやられた可能性も大きいと思われます。そして明治政府を立ち上げていく中で、将軍家も激しい権力闘争に翻弄された結果、13代、14代の将軍は早死にしています。

   しかしそれにしても、欧州列藩同盟が追い討ちを始める前の、新政府と幕府の話し合いによる「無血革命」は優れた政権移譲であったと思います。明治維新にはイエズス会のフルベッキやグラバーなど、闇の権力につながる人々の暗躍もありました。彼らとしては日本国内で大規模な内戦を引き起こし、国力を疲弊させたところで彼らが占領するというシナリオもあったと思われます。現代において見られるリビアやシリアの内戦の仕掛けと同じなのです。そして安政の大獄もそうですが、長州征伐や明治以降の奥州征伐などもそうだったのです。

   「無血革命」は、幕府側の勝海舟と薩摩の西郷隆盛のお手柄ではありましたが、なぜそれができたかといえばその裏には、大室寅之祐を即位させることができたからであり、すなわち南朝の復活があったからなのです。

   後醍醐天皇のお墓のある神社に立て札があります。
   これは明治22年に立てられたもので、そこには「明治維新は南朝の確立」と書かれています。これと一緒に、後醍醐天皇を支えた15の家系が書き連ねられており、その中には楠木正成や菊池家などもあります。西郷隆盛は、実は菊池家と同族なのです。つまり西郷家は南朝に仕える武士であったということです。

   当時、あり得ないと思われた薩長同盟が成立したのも、裏にはこうした事情があったからだと言えます。「南朝の復活」、つまり大室寅之祐を天皇に即位させることができなければ、明治維新は成功しなかったと言えるのです。

   一般的には、薩長同盟には坂本竜馬が活躍したということになっていますが、実際には彼はほとんど関係ないのです。残念ながら彼は、闇の武器商人であったグラバーに利用されて、戦争し合う両陣営へ武器を売りつけて争いを激化させ、結果的に日本を疲弊させるための役回りを演じさせられただけの人物なのです。そして最後には抹殺されています。その理由ははっきりしませんが、その後のリーダーとしては認められないとする力が働いたようです。ですから彼を殺したのは闇の権力ではなく、ごく身近な人のようです。

   一方で、大室家の実家では災難を被っています。
   政治の犠牲になったのです。つまり明治政府としては、長州から新たな天皇に来ていただいたことを隠す必要があり、また大室家からもそうした関係者が現われないように極力隠したからです。大室家には南朝の末裔としての土地も相当ありました。しかしそれらはすべて没収され、同郷であり、明治天皇に帝王学を教える役を引き受けた伊藤博文らに分配されています。

   私は大室寅之祐の弟のお孫さんに会いに、現地を訪ねたことがあります。92歳なのに凛(りん)とした方で、開口一番、「お懐かしゅうございます」と言われました。長女も連れて行ったのですが、会ってすぐに血のつながりを感じたのか、感涙の対面となりました。

   しかし大室家の家のある場所は、被差別部落になっています。
   これもかつて、後の人にわからないようにとの隠蔽工作なのです。戦前に、大室家の縁のある人が海軍に取られて、その船を沈められたこともあったということです。高松宮は子どもがおらず断絶となってしまいましたが、そうなる前、高松宮家から、大室家の血を引く男子に養子に来て欲しいとの打診があったのだそうです。しかし大室家では、それまでの明治政府のひどい仕打ちなどを経験していることから、今度も何をされるかわからないということで断られたそうです。

   山口県出身の安倍晋三さんや、彼の母方の祖父に当る岸信介さんらは、大室家とは何らかの交流があったと思われます。ですから彼らは南朝を守っていこうという気持ちはあるはずです。彼ら政治家1人ひとりは、本当に立派な人で皆いい人なのですが、政府に入って大臣になった瞬間から、アメリカ政府のターゲットになって影響を受けざるを得なくなるわけです。それでも今や、新たな時代に突入しつつあるのですから、もうそろそろ変わって欲しいものです。

7世紀から平安時代にかけて日本で勢力を伸ばした「藤原氏」は、『日本書記』の編纂において、自分たちの都合のいいように歴史を書き換えました。そして彼らもかつて中東地域を出発し、東へ東へと流れて渡って来たユダヤ人だったのです。彼らが東を目指したのは、東にユートピアがあるという伝承を信じていたからなのです。

   それがいわゆるユダヤの失われた十支族やその子孫であり、彼らにはユーラシア大陸を徒歩で移動した者たちと、船で海に漕ぎ出した者たちがいましたが、やがて流れ流れて日本にたどり着いたのでした。船で渡ってきたユダヤ人たちは、四国の徳島などにたどり着いており、徳島には船盡(ふなはて)神社と呼ばれる神社もあります。また日本海側の富山に着いたユダヤ人たちは、川を伝い、山を越えて長野県の安曇野に入った人たちもいます。富士川を遡って山梨に入った人たちも多いようです。

   ただし安曇野や山梨に入った人たちは、ユダヤ由来ではありますが、ユーラシアで騎馬民族となり高句麗経由で入った人たちであり、天皇家の流れとはまったく違う人たちです。ちなみに山梨で財を成して関西に出向き、宝塚や阪急グループをつくった小林一三さんや、東武鉄道や南海鉄道の創設者である根津嘉一郎さんたちもユダヤの子孫です。ご家族や子孫の人々はこういうことを知ると驚かれるでしょう。つまり彼らは優れた商才を引き継いでいるのです。商才がDNAに刻み込まれているわけで、そのほか日本の財閥と言われた家はほとんどがユダヤの子孫です。そして彼らは天皇家にも入っています。

   しかし注意しなければならないことは、先にも触れましたが、日本の歴史は渡来人であるユダヤ人によって始められたのではありません。日本の土地にはもっと古くから先住民族として住んでいた人々の文明があるのです。しかし「日本人=ユダヤ」という説に偏り過ぎている人たちがおり、そうした人々は短絡的に「ユダヤが日本をつくった」と言いますがそうではありません。あくまでも縄文時代から続く自然に密着した文明の上に、渡来して来たユダヤの文化と血が融合したのです。

神道とユダヤ教の融合

   実は藤原氏が日本において権勢を振るうようになる以前には、藤原氏よりも先に日本に到着していたユダヤ人のグループがおり、それが物部(もののべ)氏や蘇我氏だったのです。物部氏が神道を取り仕切っていたことは知っていると思います。物部氏は、「神道があるから仏教を積極的に導入する必要はない」と主張しましたが、蘇我氏はこれに対抗し、結局、物部氏を滅ぼした蘇我氏によって、仏教が国家宗教として導入されることになりました。けれども特に皇室の周辺では引き続き、神道に基づく祭祀が執り行われ続けてきました。

   そしてこの神道に、さまざまなユダヤのしきたりや仕様が盛り込まれているのです。
   日本の本来の古神道では、祈りの場所には磐座(いわくら)があっただけでした。つまり神の存在は大自然の中に宿っているので、特別に祈る対象は必要ないわけです。ですから日本に本来からある古神道こそは、本当に宇宙とつながるという宗教なのです。

   日本の季節にははっきりわかる四季というものがあり、そのために日本人には豊かな感受性が備わっています。秋の虫の鳴き声を聴けば「秋が来た」と思い、春には桜を楽しみます。しかし欧米人には虫の声も雑音にしか聞こえず、実の成らない桜の花を愛でる心情も理解できないようです。この日本人の自然を敬う心が、そのまま古神道には残っています。

   ところがいつのまにか、自然信仰のアニムズム的宗教の場に、鳥居があって社(やしろ)が建つようになってしまったのです。たとえば古代イスラエル神殿には、入り口をくぐると手を清める場所があり、拝殿と本殿があるという造りになっていたそうで、それが日本の神社にそのままあるのです。神社にある狛犬(こまいぬ)は犬ではなく獅子のことですが、古代ソロモン神殿の前にもライオンの像があったのです。古代のイスラエルにはもうこのような神殿はなかったのです。

   実は、日本の神社には地下室が設けてあり、そこには十字架のようなものが安置されているということを聞いています。モーゼが神(ヤーウェ)から授かった「十戒石板」が収められていたという聖櫃(アーク)と、日本のお神輿(おみこし)がよく似ているという話は有名です。お祭りの際に用いる言葉などにもその痕跡は残っており、今ではお神輿を担ぐ時の掛け声も知らずに使っていますが、古代ヘブライ後に翻訳すれば意味が判るのです。

   神道用語だけではなく、日本語には今でも古代ヘブライの言葉と共通する言葉が5000語くらいあります。ちなみに伊勢神宮には三種の神器の一つである「八咫鏡」(やたのかがみ)がありますが、その裏には古代ヘブライ語で「我ありてある・・・」と、まさに旧約聖書の中にある神(ヤーウェ)の存在が書いてあるのです。

   また神道と直接には関係ありませんが、日本には「割礼の儀式」というユダヤの習慣を残している家系があります。このように日本に今ある神道はユダヤの影響を強く受けていますが、スタイルは同じでも、日本に本来ある古神道そのものは自然を慈しみ、天と地を結ぶ宗教としては変わってはいません。その元締めが天皇であり、そこはユダヤ教やほかの宗教とは違うところです。

ユダヤ人が四国の剣山に隠したとされる「アーク」(聖櫃)

   中東を発って、海から徳島にたどり着いたユダヤ人たちは、徳島県の最高峰である「剣山」にアークを埋蔵したという噂があります。そのアークが隠されている剣山に誰も近づけさせないために、人々の注意を逸らす目的で、そのためにわざわざ空海が、四国八十八ヶ所霊場を設けたという話があるのです。ですから八十八ヶ所のどこからも剣山は見えません。

   おそらくそのアークは天皇家に大切なものであって、それを隠すための事業として、空海は霊場の整備を請け負ったと考えられます。なぜなら確かに八十八ヶ所ものお寺を作るのは、空海1人でできる事業ではないからです。おそらく実際の建設は、当時の公共事業として進められたはずです。徳島には今でも三木家という、麻を天皇家に納めている家があります。皇室の麻の着物はすべてそこの麻を使って作られており、これを献上するときにだけ年に1回、剣山で儀式をするのです。徳島はそれだけ皇室と縁のある土地なのです。

   徳島県の祖谷(いやだに)に暮らす人たちの祖先は、平安時代の源平の合戦で負けた平家の落人(おちうど)だと言われていますが、見ると明らかにユダヤ人です。その集落の家庭に飾ってあるご先祖の顔の写真を見てもそうです。山の険しい尾根に家が建っており、なぜこのような場所に住むのかといぶかしく思うほどの場所ですが、やはり先祖代々目立たないように住んでいたと思われます。

   それに一般的に四国は長い間、国民の目からは隠されてきたように思います。
   山陰地方もそうですが、四国においても経済の進み方は長い間遅かったように思います。今では本州と四国を結ぶ橋が3本もできたので便利になりました。徳島の祖谷だけでなく、四国の随所にいろいろと不思議な場所があります。祖谷にある「栗枝渡神社」もそうですが、地元では栗枝渡を「クルスド」と呼ぶそうです。

   時代はずっと新しいのですが、地元の戦国武将・長宗我部(ちょうそかべ)氏も秦氏の流れの人物です。長宗我部の歴代の当主は、背が高く美男子だったと言われています。大坂の役で豊臣方と戦って、直系はここで滅びましたが、分家の家系は現代まで続いています。家紋は、7つ酢漿草(かたばみ)の他、秦氏が海を渡って来た時に使った「帆掛船紋」も使います。

「諏訪神社」には蘇我氏によって封印された物部氏の力が宿っている

   さて仏教を導入した蘇我氏によって神道擁護派の物部(もののべ)氏が滅ぼされたために、物部氏の神社が封印されており、また蘇我氏などの系列の神社によっても物部氏が封じ込められています。それがどのような状況で行なわれたのかわかりませんが、しかし蘇我氏にしても後には追われる立場にあったのは確かです。いずれにしても蘇我氏が物部氏の本家なき後、諏訪(すわ)に入り込み、物部は封印されたのです。封印というのは、基本は祟り(たたり)を恐れてする行為なので、物部氏にとっては蘇我氏による理不尽な行為があったと思われます。

   蓼科(たてしな)へ行ったとき初めて諏訪(すわ)神社を訪れましたが、その時周辺の木々が教えてくれました。「この辺りはあらゆるものが封印されているので、ここに光の柱を立ててください。そうすれば大いなる力が蘇えります」と。その木は、封印のために1千年以上も耐えて来ているせいか、黒っぽい「気」を漂わせていました。封印だけでは物事は解決しないのです。権力争いに勝った者が自分たちのその後を祈願しての封印だったかもしれませんが、浮かばれないものに力づくでフタをしておくというのは宇宙創造の理には叶いません。つまり封印することで、エネルギーが凝り固まるような悪いしこりを残してしまっているのです。

   その後、私は蓼科で講演会を催し、集まってくれた多くの人々と一緒に改めて諏訪神社を訪れ、光の柱を立てました。そして封印されていたものを解き放ち、光の世界へ導くことができました。これでパワースポットが、本来のエネルギーを放つことでしょう。

まぁ、なんでこの時期、天皇家どうのこうの説明したかというと
2014年~2015年。
今まで権勢をふるって来た勢力が衰退する。
そして、ここから封印されていた力、つまり縄文の力が目覚めると思っているからです。

ちょっと日本のイルミナティについては書き出すときりがないので。
ここら辺の話は時間のある時に。

本当にありがとうございますた。

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